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任務で出かけてゆこうというわたしに向かって、
あのひとは決してがんばれとは言わない。
誰もせいぜいちょっと背を押すくらいの意味合いでもって
口の端にのぼらせるような言葉なのだ、
それがあのひとはその語の中に
さまざま重たげな意味を見てとって
あえて言うのを避けているようである。
くの一の任務の内容が内容であるだけに、
それをがんばってやり遂げてこいと言うのは
憚られるのだろう、なにせ一応は恋仲の女が相手である。
気をつけろ、とか、無理するな、とか、
精一杯の思いやりをあのひとはそうした言葉に託す。
あのひとのやさしいのは、こんな些細なところ。
わたしを傷つけることのないよう、
声に出さなければ気がつかないような
ちいさなことに気を配る。
その想いに報いたいがため、早くそばへ帰りたいがために、
わたしはあのひとがあえて口にしなかった言葉を、
己の内に強く強く念じて駆ける。

『あのひとはがんばれと言わない』



 * * *



ほか、行って来い、とも言わない。
くの一ヒロインを見つめる優しい誰かの目。

ただ、頑張れと言うなというのも、

なんていうか、
最近のこの世の中、
言葉でも何でもやたらめったら過敏で
ときどき気が滅入ります。

軽やかにでも応援してはいけないのかと思うし。
命令口調が悪いのか。
一方的に応援を放り投げるだけ投げて、
自分は他人事ですと顔を背ける、というふうに
聞こえるのがいけないのか?
じゃあ、「頑張って」ならいいか。
少しは聞こえがやわらかい。
「頑張ろう」なら一緒に手を取り合う感があるからセーフか。
この一年ほど、よく聞きますね。

いちばん奥底にある励ましの気持ち、思いやりの気持ちは、
言葉の使い方がどうであっても
責められるべきところではきっとないと思うのだけれど、
言葉じりでわずかにぴりっと痛む聞こえ方をしたら、
もうその言葉はアウトってことになって、
私は心落ち込みやすい多くの友人を励ますのに
「頑張れ」と言ってはいけない雰囲気に
とらわれてしまったりする。
大体にして「心落ち込みやすい」友人ていう言い方も
アウトになりそうな単語そのものを避けている。
本人たちが自称するのに、
まわりが言うのはアウト気味に思われるようですね。
いい加減オブラートが鬱陶しいときがあります。

人付き合いってそんなものかなあ。

こうやってもの書いて出して、読んでいただいてっていう
相互のやりとりをするウェブサイトをやっていると、
自分の思惑通りに必ず読まれるわけではない、
ということを感じることがあります。
できれば自分の思っていることを
そのまま相手に受け取ってもらえる、という意味で
かなった、正しい言葉を使いたいものですが、
未熟なものでなかなかそうもいきません。

人間の機能のうちには
少ない手がかりからその奥にある真実を想像する、
推測するっていうものがあって、
それが発達してきたのは
伝達手段の未熟さをフォローするためなのではないかと。
見聞きできるわかりやすい手がかりが
ことのすべてだとは思わず、
その奥に相手の気持ちがあるんだってことを
肌で感じることができるような。
ちょっと発達しすぎたのかもね。
想像して推測して思い込んでしまうようになったり。
本当のことを確かめるために本人にぶつかるのは恐いとか。
それは私も恐いな。あんまりぶつかりにいかないな。
あと、これでことのすべてが出揃った、
と思いたくなるくらい情報が多すぎるんだろうな。

突き詰めると自意識過剰と自己中心、というとこに
私の思考回路は行き着いてしまいます。
それは私が人の言葉じりにイラッとしたときの
感情と思考を解剖したらそういうことになるから なのですが。
他人様は自分が思っているほど
自分のことだけ考えていてくれるわけじゃないのだ。
自己中心という言葉はあまりいい意味に思われませんけれど、
誰でも自分を中心に置いて考えるのが第一歩だと思います。
普通で、一般的で、いわゆる通常運転で。

そう考えたら、普通にしてようよ、っていう意味じゃないかな、
頑張れって。

いつもどおりでいようぜって。
一緒にいようよって。そういう。
落ち込んでいるならいつもどおりになれるように、
すでに頑張っている人に自分の元気をそそぎ込むように。
すごく極端なことを言うと、人間って普通の状態ですでに
そこそこ幸せな生きものなんじゃないかと。
頑張れって人に言うときってほとんどの場合
言うほうの人間の心地はそれくらいナチュラルじゃないかしら。
悪気があるはずもなしで。
よく、悪気がないならなにやってもいいのかっていう
反論もあるんだけれど、
そういう反論を受けるほど問題視されることではないような。
この時点でもう過敏と思うのだけど。
頑張れと言ったとき、言った人の気持ちはすでに
相手に寄り添っているんじゃないかな。

「応援」と言っても「励まし」と言っても
アウトに思われてしまうときがあるけど、
つまり、元気付けたいとか、笑ってほしいとか、
そういうときに出る言葉のひとつではありませんかね。
言う人は責められることがあるが、
聞くほうが重く受け取りすぎる場合もあるわけで、
それは責められないもんなんだろうか。
傷ついたほうの理論が優先されて然りなんだろうか。
大切な人を思いやった気持ちを否定されるほうも、
それなりに傷つくよね。
だって「頑張れ」って無神経な言葉ではないでしょう。
互いにもっと、言葉の奥の相手を見つめる勇気があれば、
こういうすれ違いは起こらずに済むだろうか。

頑張れって言っちゃダメか。
あなたを想う気持ちをどうにかして届けたいだけなんだ。
 
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のねむ
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女性
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